夢うつつ

子供の頃の方が生きて行く上で大事なこと、よくわかっていたような気がする。

人は肩から上のぱっと見た目の印象で決まるとか。

大きな声を出す奴がその場を支配するけど、小さい声の人の方が話すと面白い奴が多いとか。

小さい声が集まった意見の方が実は大半だとか。

嫌だなと思う事がある日でも、その日を超えたらゼロになるとか。

楽しくおしゃべりできればもう友達とか。

いつからこんな質めんどくさくなってしまったんだろう。

中学くらいまではまだそんな透明な視線で世界を見ていた。

高校くらいで「?」と周囲との違和感をうっすら感じはじめ、大学に入ってバブル真っ盛りの友達についていけなくなった。

ついていけないなら、ついていかなきゃいいのに、ついていかなくちゃと必死になったあたりから己の道から逸れたのだろう。

地味な少数派は探せばきっといただろうに、そういう人種はダサいんだと、そっちに行くのを拒んだ。

学内サークルとか、合唱団とか、小説の同人誌とか。そういう場所は今っぽくないと馬鹿にしていた。バブルで化粧ばかりしてハイヒールで学校にくる奴らのほうがどこかかっこ良くスマートに見えたのは何故だろう。

ずっと信用してきた「なんとなくわかっているこの世の仕組み」を「もしかして違うのかも」と疑いはじめた。世間のみんながやってるそっち組に馴染んでいくことが大人になることなんだ思いこんでいたのだ。

どこにいても違和感。

どこにいても自信がない。

それでも大きな発言力のあるイマドキ派に馬鹿にされまいと、表面上あわせ、自分が好きな事はひた隠しにして隅っこに追いやっているうちに「あれ、私も結構イケテんじゃん」と、とんでもない勘違いをし、さらに道を踏み外す。

会社が終わるとたいして欲しくもない服を買って次の日会社に着ていく。

「あ。かわいいそれ」

「でしょう〜」 

自分じゃない独身OLの役をうまくやる。

 

中学のとき、受験勉強の合間に隙をみてはやっていたことが、意外と自分が本当に好きな事なのかもしれない。

主婦になり、子育ても一段落して、さて。なにしよう。

好きな事に没頭するっていっても・・。

ずっと家族の要望に生活のリズムを預けていたら自分がなににワクワクするのかもすっかりわかんなくなっていた。

中学のとき、よくノートにいろんなつぶやきを書いていた。

学校で友達と会話していてひっかかったこと。

なんで受験しなくちゃいけないのかわからないこと。

好きな先輩との妄想会話。

そのなかには誰も入ってこない。批判する人も馬鹿にする人もいないから恥ずかしい目にあうことは絶対になく安全な場所。

自由自在に自分を表現して、自分でコッソリ自分の世界に浸ってうっとりしていた。

 

結局おとなになっても同じで

なにしようか・・と自分の興味の引き出しを探していてもなにもみつからないので、なんとなぁく、こうやってノートを開く。

そこでまた変わらず独り語りをしてほっこりするのだけれど、あれから35年以上の歴史の中で、それが相当恥ずかしい趣味だと知ってしまった事と、だというのにそれをそっと世界の片隅に公開し、誰かが読むかもしれないとワクワクする味を知ってしまった事が唯一変わった事。

たくさんの人に会い、たくさんの経験をし、たくさん泣いて、たくさん怒って、絶望して、死にそうになったり死にたくなったり、頭がぐちゃぐちゃになってわけわからなくなったりしてきたのに結局私の根源はなんにも変わっていない。

家族と友達と世間と。

そのときそのときの役割をしながらノートに戻る。

妄想と自由の間でふわふわしては夢うつつ。